HOME   >  当NPO法人の概貌   >  理事長の略歴

理事長の略歴

理事長(仁平 宏)の経歴

当NPO法人の発起人である理事長の仁平 宏が略歴を述べます。
(多少長くなります)

私の両親の家系は一千年以上生存する大和民族であるが、6代前までは同族であった。同族結婚は蓋し劣性遺伝するので自慢にもならない、茨城県南部地域(旧、西茨城郡)である。
“仁平”姓の由来は平安時代後期(1151~1154年)の元号からである。
この時の天皇は近衛天皇である。、“反逆児”平将門は、桓武天皇の血筋を引く第5世であるが、さる京大の学者が作成した将門を皇祖とする仁平家の家系図がある。故に、戦前は皇族たちが仁平家に宿泊にきていた。
仁平家は、古墳まであったので奈良時代前後からであろう。戦前(太平洋戦争)まで7つのお濠(お堀)に囲まれ、東西南(北)に門を構え、多くの小作人がいた。没落は戦後のGHQによる農地改革であった。

隣地に妙法寺がある。建立者の最澄は、平安時代初期の僧で天台宗の開祖で、比叡山延暦寺を建立したが、最澄の愛弟子の慈覚が、彼は唐から帰国後に天台宗座主になり、この妙法寺を建立し、自身はミイラとなり、千年以上もここに安置されている。ミイラの妙法寺として著名だ。仁平家は隣接するこの妙法寺の総檀徒を千年以上も続けており、修復、お布施などすべての妙法寺の諸費用を調えてきている。
無論、仁平家代々の墓はここにある。
徒話だが、近郊に大石内蔵助の居城の笠間城があったので、赤穂浪士の数人が居候として仁平家に屯していたことも聞いている。ヤクザの吉良の仁吉も客分でいたともいう。

 次は、母親(上野姓)の家系は神社である。私はここで生まれた。
仁平家から山一つ越えた岩瀬町大泉(現、桜川市大泉)に鴨鳥御所神社が小高い山上に在る。代々続く神社の家柄で、奈良時代頃からという。
県の有形文化財でもある。一族には伊勢神宮の宮司もいる。
江戸時代は寺子屋から、戦後は小学校を設立し、村の教育行政を一手に指導していた。母は神社の長女として厳格に育てられたので、躾は厳しかった。神仏混淆の躾に私は嫌宗教となり、反逆児と称されていた。
神社育ちの一族の多くは陸士、陸大へ進み、海外の各地で戦死(自決)した。戦地から帰還後、実家の神社前で切腹した者もいた。
今は、神社の麓に沖縄戦で割腹した少将上野貞臣の石碑がある。
親しい叔父に一人、上野貞則は居合道の達人であり、現在も90歳えて無双流の最高位の地位にある(9段)。横浜の白楽で自宅に道場を持つ。

さて、大学を卒業して、日本IBMに入社、やがて上部組織のIBM極東司令部(APHQ)に抜擢され、進駐軍の様な各国のエグゼクティブ50人程がいたが、勿論、私の上司は仏系米人で、その上は独人あった。APHQ(Asia Pacific HQ)の名の通り、東南アジア全域、Aust,NZ,India,China,の各IBMを統括していた。当時IBMは世界を4地域に分け統括していた。私は個室で日本IBM社長より立派なデスクで、生意気なスタートであった。すべて秘書付きの個室である。勿論、私も個室である。外資は年齢などは関係ない。トイレまでカーペットが敷き詰められていた。比較すれば日本のオフィスはまるで豚小屋に近い雑然とした様であった。
社員同士は役職に関係なく、ファーストネームで呼び合う。私は仁平の”仁”からジン(Jin)とした。以来現在もこのJinの愛称である。以来、海外ではかなり名を売った。
驚いたのは、男女同一賃金であったことだ、これは世界共通の社則である。
女性マネージャーたちは肩で風を切って男たちを顎で使っていた。
単身赴任は一切なし、たとえ3日ほどに海外出張でも夫婦同伴、配置転換も”ノー”が出せる、日本的な単身赴任は一切なし。各階には目安箱(Speek-up)が置かれ、上司への不平不満は投書でき、正論ならクビにもできた。社長は社員のクレームに対してはすべてに優先して対処する(Open-door)等が社風であった。他にも、個人の尊重、一流主義、ファミリー主義などの社是が多々あり勉強させてもらった。

実は、優秀なSEとして社内外で有名であった兄が突然事故死したのである。
兄が客先の若い2人女性を同乗させ、西伊豆の100mの絶壁から転落し、墜死した。
兄は一週間徹夜が続いた週末に同僚たちとドライブ旅行中であった1970.5.17)。
TV、新聞にも大きく載った。当時任意保険は加入していなかったため、2女性の補償金拠出のため10年を要した。墓まで作った。両親は全財産を投じ、補償した。

私も自暴自棄気味でもあったが、私の専らの関心は、エリートコースに乗るよりも戦争中のIBM-ベトナムであった。戦争中であり、死を恐れ外国人は全員避難していた。私は強引に上司を何度も説得し、遂にサイゴン行きのOKを得たのである。

実は、今日に於いてもトラウマとなり今でも兄が夢に出てくる。(私と故兄とは幼稚園から大学の学部、就職先のIBMまで同じコースであったので、死は命運と覚悟はしていたが。また、兄は日産のフェアレディZをグラフィックしたことで名を残す)

さて、ベトナム戦争は初めてのコンピュータ戦争であり、US-Aidで米国防省から無償で最新、最先端大型コンピュータを導入し、戦略・戦術をコントロールしていた。
語れば一冊の本になるが、私は、1975.4.30のサイゴン陥落3日後、銃撃され負傷しながらも米大使館屋上からヘリで第7艦隊艦上へ、必死の思いで生還した。この間隙に現地のIBMオフィスから逃げ遅れた数名のIBM社員は北のVC(ベトコン)に銃殺された。
首に掛けたIBMのIDカードが命取りであったのだ。最大のビエン・ホア基地でも2名のIBM社員も銃殺されている。
イザなると本能的に生き延びたいとう本性が動き、日本人だ! と叫びながら米大使館に飛び込んだ。脚に銃弾が貫通し、必死であった。
このIBM社員の銃殺事件は、IBM本社では極秘情報であり、表に出ることはなかった。
今だからこそこうして書き残せるのである。

因みに、6つの米軍基地をヘリで移動、基地では銃撃戦は何度か遭った。当時、枯れ葉剤を浴びたのはおそらく日本人では私だけだ。AK銃は今でも扱える。
私事である、この辺で辞めておこう。
こうした私の命を賭した体験から始まったが、IBMには28年間勤務した。

その後、大学ゼミ(KBS出)・IBM後輩であった㈱大和コンピュータ(JQ)社長から役員にヘッドハントされる。私に期待されたミッションは重責であった。

私はこの社で、SW QC(品質管理)の世界標準であるCMMI(能力成熟度モデル統合)日本に於ける第一人者となる。なお、CMM-SWはex-IBMのワッツ・ハンフリーが開発したものだ。
また、ISOは欧州発祥であらゆる業界の分野で適用されるが、CMMはコンピュータのSW分野のみである。

大和コンピュータ社は日本の中小企業では初めてのCMMIを達成し、大手ICT4社に次ぐ5社目の偉業を残した。これは当時の世界で最高額で最高度なシステム監査と評され、2年間に23千万円もの高額費用を私に賭けて達成したものである。
CMMI本部のSEISW EngInst.)はDoD(米国防省)傘下のPitts.のCMU(Carnegie Mellon Univ.)及びSEI(SW工学研究所)にはシャトル折衝を重ね、結実させたものである。世界でも著名なSW研究の重鎮たちが、日本の中小の大和コンピュータに来社したものである。
当時の日経ビジネス誌には大きく載せられた。
同時に、IBMを含め、日本の大手の中堅SW技術者約500名に教育実践を3年間実地し、日本のSW技術の高レベル化を図っている。当時日本の業界はBody-Shopperが蔓延、
品質管理が世界標準から遅れていたからである。
そして、国内ではMETI大臣賞(故中川昭一)を授与され、海外からも大きく評価された。国際化とジャスダック上場と私のミッションは達成したのである。

話はさらに長くなるが、参考までに大和コンピュータの特異性を伝えておこう。
この社は港区白金に自社ビルを有するリッチな会社であったので、仁平が自在に海外に動け、CMMI達成が可能であったのである。創業者の鶴の一声で全てが決まった。
社員を徹底して大切にする会社であった。見学を勧めたい。

自社ビル全体を電磁波防御の網を張り、床下に備長炭を敷き締め、脳波を活発化させるため全社員裸足(社長も)であり、天井から超音波洗浄器を下げ、飲料水は天然水を電気分解し超微粒子化した蒸留水と徹底した環境整備を職場に具備していた。
ただ、携帯は社内からは繋がらなかったというオチがつくが。

全社員はin-houseSW技術者集団であったため、内勤で働くため、脳随の働きを最大限に発揮できるようにと、創業者である先代社長の経営理念であった。
ここで、私は農業分野に目覚めたのである。
社内食堂を例にあげると、社独自の農場を所有し、コメも栽培、100%オーガニックの食事を社員に給し、社産社消ともいうべくICT化を実践した食材を供しているユニークな会社である。仁平はJ-GAP(農業指導員)も取得、学べた在職計14年間であった。

この間、インドのバンガロール、ベトナムはサイゴンにアウトソース先として100%子会社を設立、日本ではインド人、ベトナム人技術者を採用し、国際化に努めた。
当時、日本では最速で農業のICT化を図り、“i-Agri.”の商標登録を取得し、日本での先陣を切った。 
水・土を使用しないメビオール工法でメロン栽培を日本で初めて仁平が静岡袋井市で試作、成功した。現在でも、袋井市で地域の発展と共に大規模な植物工場を展開中である。

その後、1998年からMETIとベトナムのICT業界育成のため平沼赳夫大臣をトップにハノイ入りした。入越の数日後、ニッコウ・ホテル滞在中に米の同時多発テロ事件が発生した。大臣は急遽帰国したが、METI官僚らは残留した。内一人は事務次官となっている。

ベトナム側の中心は弱冠39歳の国有会社FPT社のCEO、Mr.TG.Binhであった。
当時のFPT社は200名程度の零細会社であったが、今や35,000名の国際企業へと育った(なお、現在、Binhは日本の経団連のメンバーでもある)。Binhは国費でモスクワ大にて数学と物理学のPh.Dを取得している。
2016年、FPTは、富士通と協力し「FUJITSU Intelligent Society Solution 食・農クラウド 」を導入したショールーム「Fujitsu – FPT Farm and Vegetable Factory」をハノイに開設した。ベトナムでは農業生産技術の革新、食の安全性の確保、農業事業の高度化が求められているため、FPTは、富士通と連携し、クラウドを活用した高品質で手間のかからないベトナムでのスマートアグリを実践している。
今でこそ、FPTのFはFinanceだが、当初はFoodのFであった。食糧は国の命だからだ。
なお、FPT本社15階で、2018年ベトナム国内初となる茶室「円徳庵」のお披露目式を
茶道裏千家の第15代前家元・千玄室大宗匠により執り行われている。
蛇足だが、当時、このTG.Binhを騙し、VNの国費を懐に詐取した東証1部のICT会社会長がいた。奇しくも藍綬褒章まで授与されていたが、昨年死去した。

仁平は、2005年、モスクワでのCMMI国際会議に日本代表で出席、時間を作り、各地でダーチャ(дача、別荘兼農場)を実学する。かつての農奴制の残滓が散在していた。
コルホーズ、ソホーズ体制に慣れた農民たちは現体制には無関心と映った。
帰路途上に中央アジア各国を周遊し、キルギスが日本の兄弟国であるという伝説を初めて聞く。今回のNPO法人の発意の原点はこの頃であった。出張とは寄り道するものである。

余談になるが、仁平はモスクワでは、かつてベトナム戦争時にソ連が奪い去ったIBM大型コンピュータの残骸の探索をIBM-ロシア人と密かにスパイもした。
当時、人工衛星打ち上げ競争はソ連が米を一歩先んじていたからである。

 ところで、現在、仁平の座標軸はサイゴン市で戦争の凄惨さと、望郷と、並びに私憤が残るサイゴンに独居する(愛犬と)。妻は13年前に癌死したが、3人娘が東京在、9人(4男5女)の孫に恵まれている。
現、早慶サイゴン連合会名誉会長。憂国の士のつもりだ。このままでは日本は中国化され(土地所有権)、中国の一村となり地球上から日本民族は消滅するリスクさえある。
政治経済界でこの危機意識を抱く日本人は誰一人いない。日本人は利己(自己)主義が集団化した民族なのだろう。
ベトナムにはホームレスはひとりもいない、自殺者もひとりもいない。何故?

トインビーの40年の大書、「歴史研究」から挑戦と応戦を綴った21ヶ国の文明論のページを開いてみるべきだろう。

なお、私は、数か月前より“Note”に週一編程度、日本の次世代の一助になればと投稿している。

お問い合わせ